1984-05-08 第101回国会 衆議院 運輸委員会 第8号
まず第一に、第十一青函丸については、これは全員乗組員が死亡し、しかも荒天の早い時期に沈没してしまったので、その原因は不明である。その他の三隻につきましては、これはただいま申し上げました洞爺丸事件裁決の第二点、第三点については同じでございますが、船長の判断につきましては、いずれも多少先ほどの洞爺丸の船長の出航判断とは違ったニュアンスでその原因をあらわしております。 以上でございます。
まず第一に、第十一青函丸については、これは全員乗組員が死亡し、しかも荒天の早い時期に沈没してしまったので、その原因は不明である。その他の三隻につきましては、これはただいま申し上げました洞爺丸事件裁決の第二点、第三点については同じでございますが、船長の判断につきましては、いずれも多少先ほどの洞爺丸の船長の出航判断とは違ったニュアンスでその原因をあらわしております。 以上でございます。
そこで、高等海難審判庁の長官に来ていただいたのでありますが、昭和二十九年の九月に十五号台風、いわゆる洞爺丸台風というものによりまして、青函連絡船では洞爺丸を初めといたしまして十勝丸、日高丸、北見丸、第十一青函丸が遭難、沈没をした。この事件の報告によりますと、我が国海難史上未曾有の大事件であるというように記録されておりますが、この海難事故で審判が行われましたが、結局事故の原因はどうだったんですか。
それから青函丸といいますのは、これは貨車を主といたしまして、お客の少数も乗り得る船でございます。それから渡島型というのは七隻でございまして、これは貨物専用船でございます。従いまして、主としてお客を運ぶ船が四隻、それから貨物を主とする船が十隻、合わせて十四隻であります。
このうち国鉄連絡船による事故が、洞爺丸、十勝丸、日高丸、第十一青函丸、紫雲丸等七件、死者千五百五十八名であり、民間旅客船による事故は、これも七件、死者五百七十名であります。こうして、海難事故に関する限り、国鉄の安全運転とは迷信のごときものであると思うのであります。この事実に対しまして、政府はどう見られておるのでありますか。
第十一青函丸、十勝丸、北見丸、日高丸、それから三十年五月の紫雲丸、これなんかも百五十八名死亡。三十二年の四月に瀬戸内海の三原沖で第五北川丸、これも多数の死亡者がございました。これなんかを見まして、どこに原因があるか、この原因を研究し尽しまして、私どもは原因をこの五つにしぼってこれが対策を立てておるわけなんです。
そういったものの評価等は実は当時はっきりしていなかったものでございますから、一応再評価いたしまして、あとの処分のきまりました上で廃却するものはするということで、現にその後洞爺丸と第十一青函丸につきましては、引き揚げても使いものにならぬということで、この二隻については除却処分をいたしたわけでございます。
○小松分科員 あなたの説明を聞くと、洞爺丸と青函丸というのは、いわゆる鉄道連絡船として、船舶としての台帳に載っている一つの連絡船の資産である。それを鉄くずにしたときの資産とみなして、くずして資産再評価するという再評価の仕方があるのかどうか。
○久保説明員 その点につきましては、今の洞爺丸あるいは第十一青函丸等につきましては、一応当時の考え方としては、いずれともまだはっきりしない、引き揚げて使えるものかどうか、そういった点もはっきりしないということで一応再評価をいたしたので、事態の判明次第処理するということで、一応洞爺丸自体として使えるものとして評価をいたしたわけでございます。
五十メートルをやれば、おそらく青函丸も洞爺丸もみなひっくり返ってしまったろうということを、権威ある人から私は聞いております。私はそれを委員会において確かめたいと思いますが、時間がないので、この次の機会に確かめたいと思います。 〔委員長退席、青野委員長代理着席〕 そうしますと、今の国鉄の船というものは、風速五十メートル以上のしけには自信がない船だ。
けれども五十メートルの試験をしたならば、おそらく今の船はみな青函丸も洞爺丸も保たなかったのではないかと思うのです。ところがそれをこえて五十六メートル、五十七メートルというふうな風が吹いておるということになれば、そういう風に対して試験もやらなかった船、対抗力がないような船に乗った船長の責任というものはどうなるのですか。
○小山(亮)委員 審判所の審判をなさるその参考として、洞爺丸を建造するときに、これは確かに風洞試験によって性能というものを検査した、これは私は聞いておりますが、青函丸、洞爺丸、これらの風洞試験をしまして、風速五十メートルの試験をした。
第一青函丸は五千七百万円で引き揚げは完了せられましたが、再使用は不可能であり、スクラップ化の予定であります。北見丸、十勝丸、日高丸は引き揚げの上、改装再使用可能であります。 以上御報告申し上げまして終りたいと思います。
割れた船は十一青函丸という船でございます。これは港内にアンカーを入れてエンジンをかけておったのでございますが、風が非常に強くなりまして、また貨物船の停泊しているものが相当走錨をしましてあばれ出しましたものですから、とれてしまったのではないでしょうか。そこでさっきの十一青函は錨地におることができなかったので、出ていったわけであります。あの船は実に複雑な割れ方をいたしました。
○小山(亮)委員 洞爺丸が港外に出て沈没しましたが、そのときに港内におりまして、桟橋に繋留していた青函丸がありますね。それが出ていって沈没しておりますが、あれはどういう理由で沈没したか、お調べでしたか。
現にあの洞爺丸が出たのが悪い、出たのが悪いといいますが、残っていた青函丸はどうです。桟橋に横づけになって九本の綱をとっていた。ワイヤーとこんな太い綱をとってつないでいた。そうしたところが、一風でばらばらに八本切れてしまって、一本残った。これは大へんだというので、それを切って外へ出ていかりを入れたけれども、入れられない。いかりが切れてしまった。
この難を免れた中に、特に石狩丸、第六青函丸はそれぞれ、洞爺丸と同じように、二十一両或いは四十三両というような貨車を搭載しておつたのであります。これが函館港の中に入つておりましたために、その難を免れた。言うまでもなく、先に申しましたように、函館港は日本最大の定期航路の発着港である。
九月二十三日東京を出発しまして、二十四日青森から第十二青函丸に乗船しましたので、船中におきまして、貨車航送船の構造及び貨車積載個所を実地に見学、貨車の緊締状況等も見学をいたしました。函館に到着してから直ちに洞爺丸遭難現場に赴きまして、弔慰を捧げました。二十五日は海上自衛隊、海上保安部、函館鉄道管理局、函館海洋気象台の順序で当時の事情を聴取いたしました。
それから十一青函丸の方は船体が相当複雑にこわれておりまして、また砂の中にも相当埋まつておる部分もございます。これはどういうふうにしたら最も早く引揚げられるか、あるいは死体の捜索なり、あるいは調査の参考資料なりにするのに、どういう方法にしたらいいかということを目下技術的に研究しておるのでございますが、できるだけ早く結論をつけて、その作業にもすぐかかるようにいたしたいと思つております。
ただこの洞爺丸の場合におきましては、しばらく天候を見合して、あの岸壁についておりまして、あとから参りました十一青函丸の客を乗り移させたり、あるいはその後も客を乗せたりいたしておりますし、またその間タラツプがかけてありまして、おりた方もあるのじやないかということもありまして、乗船名簿には載つておるが、実際は乗つておらないという方があつたり、あるいは乗船名簿には自分の本名を使わずに乗つておるというような
そして十二日の渡島丸の運航の時間は、そういう見方からいたしますと、渡島丸が午前の十時五十五分に出港すると同時に、石狩丸が青森から十一時に出港し、日高が十一時二十分に出港し、第六青函丸が函館から十二時四十五分に出港し、第八青函丸が十三時十五分に青森から、十一青函が十三時二十分に函館からというぐあいに、続々として渡鳥の出港と同時に行動を開始しているのであります。
○臼井委員 その点で一つお伺いしたいのは、LST型のごとく貨車の積込み口を閉鎖しなかつた理由は、占領下の駐留軍の意向で当時トン数を制限されていたので、それで開口部をああいうふうに開いておけばそれがトン数に入らない、要するに甲板であるという点からそういうふうにしてあつたのだ、こういうふうにたしか十二青函丸の乗組員から聞いたのでありますが、その点はいかがでありましようか。
現にわれわれは生き残つた第十二青函丸というのに、函館から青森まで乗つたのです。そのとき船体をくまなく見せてもらつたのでございますが、貨車航送の甲板をずつとみな見た。ところがどうもハツチが腐りかけてまつ赤になつておる。ハツチをとめるキイというのですか、それがさびついてネジが動かないような状況もある。
一行は一日東京発、一路函館に向つたのでありますが、途中連絡船第十二青函丸について航送船の構造及び設備等に関し実地調査を行つた上、二日午後函館に到着、直ちに七重浜、国鉄職員集会所、慰霊堂に遭難死没者の霊を弔い、渡辺病院に生存者を慰問した後、菊川、富吉両代議士御遺族に弔意を表しました。
受けますと、直ちに北海道の北海道敬警察函館方面隊及び函館海上保安部と協議いたしまして合同捜査本部を設置し、函館検事正以下検事五名、副検事一名、検察事務官七名のほかに、函館高等検察庁管内から検事六名、検察事務官五名の応援を求め、まず洞爺丸の遭難事故が最も重大性を持つものであるという点にかんがみまして、この原因探究を第一の目標とし、あわせて洞爺丸とともに当時遭難沈没した青函連絡船十勝丸、日高丸、第十一青函丸
○永岡光治君 同じ条件下にありまして、避難してたしか助かつたのは第十三青函丸ですか何ですか、助かつたのがありますね。たしか貨車を降して避難して……。だから私は同じ条件下にあるのですから、こんなことは不可折方じやない。一方は船長の判断によつて貨車を降して避難して助かつた。
と申しますことは、あの二十六日の暴風雨によって被害あるいは沈没をこうむった船は洞爺丸、第十一青函丸、北見丸、十勝丸ですか、その他たくさんあるのですでありますから、出帆をすれば必ずあの運命になるのだ。
この船の出帆する前に、駐留軍が主として乗る第十一青函丸という船が出帆しておる。この十一青函丸が函館から出帆したのに間もなく引返して来て、この乗客すなわちアメリカの駐留軍の軍隊が洞爺丸に乗り移つたわけです。ところがこの前後に十一青函丸の中に入つておつた駐留軍用の荷物を全部洞爺丸に載せかえるために、時間が遅れておる。
○説明員(天坊裕彦君) 第十一青函丸は九十人乗つておつたのでありますが、三十一人死亡を確認いたしております。この船は生存者が皆無であります。残りの五十九体がまだ不明ということになつております。それから北見丸これにつきましては、七十六人乗つておつたわけでございますが、三十三遺体が発見されまして、生存者が六人、不明が三十七人でございます。
先ほど申しましたが、十一青函丸、日高丸という二つにつきましては、只今のところ潜水夫が連日もぐつておりますが、死体があるかどうかはつきりされないというのが現状でございます。そこで私どもの今後の方法といたしましては、こうした格好で何日かやつても死体がどうしても発見できないという数日を経ました場合には、結局その船を揚げるというような方法を講じるより方法はないのではないかというふうに考えるわけであります。
更に外人の乗換えました船は、第十一青函丸から乗り移つたわけであります。
その間、ただ今お話のございました乗りかえを現実にいたしました第十一青函丸のお客さんの乗船名簿は、そのまま洞爺丸に移しておりますから、それは一緒になつております。
たとえば第八青函丸は午後六時ごろ函館に着いておる。十勝丸は七時ごろに函館の沖におつたわけであります。従いまして前後の問題としては、台風がすでに過ぎ去つたかどうかという判断の問題が、洞爺丸の出帆に際しての大きな問題であつたのであります。当日は御承知の通り気象台から三時現在の情報といたしまして、当時青森の西方百キロの地点に台風の中心がおつて、時速百十キロの速度をもつて北東に動いておる。
しかしながら先ほど申しましたように、同じく港外あるいは港内におりまして無事でありました第十二青函丸、第八青函丸というのがございました。これらの気象を受付けました船の日記には、ちやんと何時何分にどういう報告を受けた、どういうことを聞いたということが記録にあるのであります。
ことに一番私がふしぎに思うのは――これは私はかりではないと思うのでありますが、十一青函丸あたりはその前に出航して、そうして途中から引返して来た。
○篠田説明員 今山崎委員からお話がありました戦争中に沈みました船は、おそらく第五青函丸のお話ではないかと思うのでありますが、当時は相当の吹雪でありまして、風よりもむしろ非常に吹雪が強かつた。それから風もまた相当あつたのです。それで実は青森の港内へ入りましても、船を着けることかたしかできなかつた。
○篠田説明員 その当時十一青函丸が欠航ときまりましたあとにも、船は勅いておるのでございます。青森から出ました第八青函丸並びに、石狩丸が函館の港内に到着いたしましたのが、第八か十七時四十五分、石狩丸か十八億四十分でございます。しかしながらこの船は岸壁がふさがつておりましたので、岸壁に到着することはできませんでした。