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23件の議事録が該当しました。

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1984-05-08 第101回国会 衆議院 運輸委員会 第8号

まず第一に、第十一青函丸については、これは全員乗組員死亡し、しかも荒天の早い時期に沈没してしまったので、その原因は不明である。その他の三隻につきましては、これはただいま申し上げました洞爺丸事件裁決の第二点、第三点については同じでございますが、船長判断につきましては、いずれも多少先ほどの洞爺丸船長出航判断とは違ったニュアンスでその原因をあらわしております。  以上でございます。

林至

1984-05-08 第101回国会 衆議院 運輸委員会 第8号

そこで、高等海難審判庁の長官に来ていただいたのでありますが、昭和二十九年の九月に十五号台風、いわゆる洞爺丸台風というものによりまして、青函連絡船では洞爺丸を初めといたしまして十勝丸日高丸北見丸、第十一青函丸遭難沈没をした。この事件報告によりますと、我が国海難史上未曾有の大事件であるというように記録されておりますが、この海難事故審判が行われましたが、結局事故原因はどうだったんですか。

梅田勝

1962-05-06 第40回国会 参議院 本会議 第21号

このうち国鉄連絡船による事故が、洞爺丸十勝丸日高丸、第十一青函丸、紫雲丸等七件、死者千五百五十八名であり、民間旅客船による事故は、これも七件、死者五百七十名であります。こうして、海難事故に関する限り、国鉄安全運転とは迷信のごときものであると思うのであります。この事実に対しまして、政府はどう見られておるのでありますか。

天田勝正

1958-04-10 第28回国会 衆議院 運輸委員会 第20号

第十一青函丸十勝丸北見丸日高丸、それから三十年五月の紫雲丸、これなんかも百五十八名死亡。三十二年の四月に瀬戸内海の三原沖で第五北川丸、これも多数の死亡者がございました。これなんかを見まして、どこに原因があるか、この原因を研究し尽しまして、私ども原因をこの五つにしぼってこれが対策を立てておるわけなんです。  

小山亮

1957-02-13 第26回国会 衆議院 予算委員会第四分科会 第3号

そういったものの評価等は実は当時はっきりしていなかったものでございますから、一応再評価いたしまして、あとの処分のきまりました上で廃却するものはするということで、現にその後洞爺丸と第十一青函丸につきましては、引き揚げても使いものにならぬということで、この二隻については除却処分をいたしたわけでございます。

久保亀夫

1957-02-13 第26回国会 衆議院 予算委員会第四分科会 第3号

久保説明員 その点につきましては、今の洞爺丸あるいは第十一青函丸等につきましては、一応当時の考え方としては、いずれともまだはっきりしない、引き揚げて使えるものかどうか、そういった点もはっきりしないということで一応再評価をいたしたので、事態の判明次第処理するということで、一応洞爺丸自体として使えるものとして評価をいたしたわけでございます。

久保亀夫

1955-12-15 第23回国会 衆議院 運輸委員会 第7号

五十メートルをやれば、おそらく青函丸洞爺丸もみなひっくり返ってしまったろうということを、権威ある人から私は聞いております。私はそれを委員会において確かめたいと思いますが、時間がないので、この次の機会に確かめたいと思います。   〔委員長退席青野委員長代理着席〕  そうしますと、今の国鉄の船というものは、風速五十メートル以上のしけには自信がない船だ。

小山亮

1955-12-15 第23回国会 衆議院 運輸委員会 第7号

けれども五十メートルの試験をしたならば、おそらく今の船はみな青函丸洞爺丸も保たなかったのではないかと思うのです。ところがそれをこえて五十六メートル、五十七メートルというふうな風が吹いておるということになれば、そういう風に対して試験もやらなかった船、対抗力がないような船に乗った船長の責任というものはどうなるのですか。

小山亮

1955-05-23 第22回国会 衆議院 運輸委員会 第11号

割れた船は十一青函丸という船でございます。これは港内にアンカーを入れてエンジンをかけておったのでございますが、風が非常に強くなりまして、また貨物船の停泊しているものが相当走錨をしましてあばれ出しましたものですから、とれてしまったのではないでしょうか。そこでさっきの十一青函は錨地におることができなかったので、出ていったわけであります。あの船は実に複雑な割れ方をいたしました。

篠田寅太郎

1955-05-17 第22回国会 衆議院 運輸委員会 第10号

現にあの洞爺丸が出たのが悪い、出たのが悪いといいますが、残っていた青函丸はどうです。桟橋に横づけになって九本の綱をとっていた。ワイヤーとこんな太い綱をとってつないでいた。そうしたところが、一風でばらばらに八本切れてしまって、一本残った。これは大へんだというので、それを切って外へ出ていかりを入れたけれども、入れられない。いかりが切れてしまった。

小山亮

1954-11-15 第19回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第7号

九月二十三日東京を出発しまして、二十四日青森から第十二青函丸に乗船しましたので、船中におきまして、貨車航送船の構造及び貨車積載個所実地見学貨車緊締状況等見学をいたしました。函館に到着してから直ちに洞爺丸遭難現場に赴きまして、弔慰を捧げました。二十五日は海上自衛隊海上保安部函館鉄道管理局函館海洋気象台の順序で当時の事情を聴取いたしました。

重盛壽治

1954-10-25 第19回国会 衆議院 運輸委員会 第47号

それから十一青函丸の方は船体が相当複雑にこわれておりまして、また砂の中にも相当埋まつておる部分もございます。これはどういうふうにしたら最も早く引揚げられるか、あるいは死体の捜索なり、あるいは調査参考資料なりにするのに、どういう方法にしたらいいかということを目下技術的に研究しておるのでございますが、できるだけ早く結論をつけて、その作業にもすぐかかるようにいたしたいと思つております。

唐沢勳

1954-10-21 第19回国会 衆議院 運輸委員会 第45号

ただこの洞爺丸の場合におきましては、しばらく天候を見合して、あの岸壁についておりまして、あとから参りました十一青函丸の客を乗り移させたり、あるいはその後も客を乗せたりいたしておりますし、またその間タラツプがかけてありまして、おりた方もあるのじやないかということもありまして、乗船名簿には載つておるが、実際は乗つておらないという方があつたり、あるいは乗船名簿には自分の本名を使わずに乗つておるというような

唐沢勲

1954-10-21 第19回国会 衆議院 運輸委員会 第45号

そして十二日の渡島丸の運航の時間は、そういう見方からいたしますと、渡島丸が午前の十時五十五分に出港すると同時に、石狩丸青森から十一時に出港し、日高が十一時二十分に出港し、第六青函丸函館から十二時四十五分に出港し、第八青函丸が十三時十五分に青森から、十一青函が十三時二十分に函館からというぐあいに、続々として渡鳥の出港と同時に行動を開始しているのであります。

館俊三

1954-10-21 第19回国会 衆議院 運輸委員会 第45号

臼井委員 その点で一つお伺いしたいのは、LST型のごとく貨車の積込み口を閉鎖しなかつた理由は、占領下駐留軍の意向で当時トン数を制限されていたので、それで開口部をああいうふうに開いておけばそれがトン数に入らない、要するに甲板であるという点からそういうふうにしてあつたのだ、こういうふうにたしか十二青函丸乗組員から聞いたのでありますが、その点はいかがでありましようか。

臼井莊一

1954-10-20 第19回国会 衆議院 運輸委員会 第44号

現にわれわれは生き残つた第十二青函丸というのに、函館から青森まで乗つたのです。そのとき船体をくまなく見せてもらつたのでございますが、貨車航送の甲板をずつとみな見た。ところがどうもハツチが腐りかけてまつ赤になつておる。ハツチをとめるキイというのですか、それがさびついてネジが動かないような状況もある。

竹谷源太郎

1954-10-19 第19回国会 衆議院 運輸委員会 第43号

一行は一日東京発一路函館向つたのでありますが、途中連絡船第十二青函丸について航送船の構造及び設備等に関し実地調査行つた上、二日午後函館に到着、直ちに七重浜、国鉄職員集会所慰霊堂遭難死没者の霊を弔い、渡辺病院生存者を慰問した後、菊川、富吉両代議士御遺族に弔意を表しました。  

山崎岩男

1954-10-18 第19回国会 参議院 法務委員会 閉会後第8号

受けますと、直ちに北海道北海道敬警察函館方面隊及び函館海上保安部と協議いたしまして合同捜査本部を設置し、函館検事正以下検事五名、副検事一名、検察事務官七名のほかに、函館高等検察庁管内から検事六名、検察事務官五名の応援を求め、まず洞爺丸遭難事故が最も重大性を持つものであるという点にかんがみまして、この原因探究を第一の目標とし、あわせて洞爺丸とともに当時遭難沈没した青函連絡船十勝丸日高丸、第十一青函丸

井本台吉

1954-10-12 第19回国会 衆議院 法務委員会 第74号

この船の出帆する前に、駐留軍が主として乗る第十一青函丸という船が出帆しておる。この十一青函丸函館から出帆したのに間もなく引返して来て、この乗客すなわちアメリカの駐留軍の軍隊が洞爺丸に乗り移つたわけです。ところがこの前後に十一青函丸の中に入つてつた駐留軍用の荷物を全部洞爺丸に載せかえるために、時間が遅れておる。

岡田春夫

1954-10-12 第19回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第6号

説明員天坊裕彦君) 第十一青函丸は九十人乗つてつたのでありますが、三十一人死亡を確認いたしております。この船は生存者が皆無であります。残りの五十九体がまだ不明ということになつております。それから北見丸これにつきましては、七十六人乗つてつたわけでございますが、三十三遺体が発見されまして、生存者が六人、不明が三十七人でございます。

天坊裕彦

1954-10-12 第19回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第6号

先ほど申しましたが、十一青函丸、日高丸という二つにつきましては、只今のところ潜水夫が連日もぐつておりますが、死体があるかどうかはつきりされないというのが現状でございます。そこで私どもの今後の方法といたしましては、こうした格好で何日かやつて死体がどうしても発見できないという数日を経ました場合には、結局その船を揚げるというような方法を講じるより方法はないのではないかというふうに考えるわけであります。

天坊裕彦

1954-10-01 第19回国会 衆議院 運輸委員会 第42号

たとえば第八青函丸は午後六時ごろ函館に着いておる。十勝丸は七時ごろに函館の沖におつたわけであります。従いまして前後の問題としては、台風がすでに過ぎ去つたかどうかという判断の問題が、洞爺丸出帆に際しての大きな問題であつたのであります。当日は御承知の通り気象台から三時現在の情報といたしまして、当時青森の西方百キロの地点に台風の中心がおつて、時速百十キロの速度をもつて北東に動いておる。

天坊裕彦

1954-09-29 第19回国会 衆議院 運輸委員会 第40号

篠田説明員 今山崎委員からお話がありました戦争中に沈みました船は、おそらく第五青函丸お話ではないかと思うのでありますが、当時は相当の吹雪でありまして、風よりもむしろ非常に吹雪が強かつた。それから風もまた相当あつたのです。それで実は青森港内へ入りましても、船を着けることかたしかできなかつた

篠田寅太郎

1954-09-29 第19回国会 衆議院 運輸委員会 第40号

篠田説明員 その当時十一青函丸が欠航ときまりましたあとにも、船は勅いておるのでございます。青森から出ました第八青函丸並びに、石狩丸函館港内に到着いたしましたのが、第八か十七時四十五分、石狩丸か十八億四十分でございます。しかしながらこの船は岸壁がふさがつておりましたので、岸壁に到着することはできませんでした。

篠田寅太郎

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